美しい「大和言葉」の言いまわし―――さりげなく、折り目正しく「こころ」を伝える
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要約
漢語や外来語に押されて、元々の日本語である「大和言葉」が存在感を失いつつある。品があり優しい大和言葉とその用例を紹介していく本。
面白いと思ったもの、自分に勘違いや誤用があったものなどをいくつか拾って挙げていく。
ごゆるり
「ゆるり」は、時間的な余裕を表す「ゆっくり」と、空間的な余裕を表す「ゆったり」を兼ね備えている言葉。くつろいでもらいたい気持ちが伝わる。
お口汚し
「相手の口を汚す程度の簡単で粗末な食事」という謙遜の言葉。アジア文化圏以外では伝わりにくい表現かもしれない。大和言葉は謙遜の思想と繋がり深いものが多い。
上置き
ラーメンに乗せる叉焼のような所謂トッピングのこと。初めて聞いた。
水際立つ
他よりも際立って優れていることを示す褒め言葉。水辺と陸地の境である「水際」がはっきりしていることから、際立つことを意味するようになった。
うがつ
穴を開けて奥を見ることから、元来は「物事の本質をみぬくこと」を意味する褒め言葉だった。現代は「うがった見方」というと「ひねくれた見方」という使われ方が多くなっている。
おとなしい
元々は「大人しい」と書き、思慮分別があり落ち着いていることを示す。物静かで多くを語らないのが「善い」という価値観が見える。
しおらしい
元々は女性が塩を請うさまを示していた。何だか従順なフリして近づいてくるけど、狙いは私がもっている「塩らしい」というのが語源。知らなかった。
すべからく
「須らく」と書き、「ぜひとも」「当然」と言った意味を表す。すべてという意味ではない。
「努力したものが成功するとは限らない。だが成功したものは須らく努力している」という言葉は「成功したものは、当然努力をしているものだ」ということになるのだろう。
のべつまくなし
「途中で幕を引くことなくひっきりなしに」という意味。
妻に「ひっきりなしに食べるから太るんだよ」と言うと機嫌を損ねかねないので、より穏やかな表現で「のべつまくなしに食べるから太るんだよ」と言ってみよう。きっと同じ結果になります。
おざなり
芸人が「その座敷の程度に応じた、その場限りの芸を見せること」を「お座なり」としたのが起源。やることはやるけど適当と言う意味。
こんどうされがちな「なおざり」は「直去り」で、そのまま何もせずに去ってしまうこと。適当でも一応やるのが「おざなり」、やらずに放っておくのが「なおざり」
よしんば
「もし〜なら」という意味だが、話し手が肯定したいという思いが含まれている。悪い結果の仮定にも使っていたのは間違いだった。
とどのつまり
出世魚ボラの別名がトド。最終形態がトドなので「結局は」という意味。アシカの仲間のトドだと思っていた。。
かまとと
蒲鉾は魚(とと)であることを知らないふりをする「ぶりっこ」を意味する言葉。いまでもクイズ番組などで、敢えて外れな回答をする「おバカタレント」いるが、バカの与える安心感が売りなる文化も、ずいぶん歴史があるようだ。
草いきれ
「草の匂いが強いさま」を示すが、本来は暑い時期限定。「いきれ」は「いきり立つ」などと同じで、「息が切れて、熱くなる」という意味で、涼しい時期には使わない。
たそがれ
夕暮れのこと。近くの相手が誰だかわからなくなる「誰そ彼」が変じた。「君の名は」で言ってた。
感想・考察
言葉は時代とともに変化するのが当然だ。
変わらず「正しい」用法というのはあり得ないのだろう。
でも、ただ「知らない」というだけで、価値のあるものが消えてしまうのも残念だ。文化が多様性を失ってしまう。
例えば「ら抜き言葉」の問題がある。
「食べられる」を「食べれる」とすることに違和感を感じる人もいるだろう。
だが「ら抜き言葉」には理由がある。「受け身」と「可能」の区別だ。
「私が巨人に捕食される」のように受け身の場合は、ら抜きではなく必ず「食べられる」と表現される。
これが「Max鈴木なら5キロのカレーくらい30分で食べちゃう」というように可能を表す場合には「食べれる」が使われることもある。
「ら抜き言葉」が広まったのは、「受け身」と「可能」を区別するのが合理的だと考える人間が増えてきたことを意味するのだろう。
一方で「られる」というのが「可能、受け身、尊敬、自発」など、広い意味で使われてきた理由も無視するべきではない。
八百万のアニミズムがベースとなり「行為者である自分」と「その対象となる世界」が、ある程度混然としている。
「自分ができる(可能)のは、大いなる自然ができるようにしてくれた(受け身)からで、そいう力のある自然は畏敬すべきものだ(尊敬)、自分が決めたと思うのは思い上がりで、自然の流れに沿って結果的にこうなった(自発)」という、世界観・宇宙観が「られる」の背景にある。
それらを論理的に区別するよりも、その繋がりの方が重要だと感じられていたということだろう。
私は「ら抜き言葉」は合理的で、これを使う人を否定するつもりは全くない。おそらく近い将来こちらが主になっていくのだろうと考えている。
だが、古くからの日本的世界観に親しみを感じるところもあるので、自分自身が書くときは「ら抜き言葉」を避けたいと考えている。
古くからあるというだけで、それが「正統で良いもの」とは言えない。ただ古いものを「知らない」ことで、選択肢が狭められるのは面白くない。
本書のように、古い言葉を紹介する活動には意義があると思う。