14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト
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要約
近代以降の哲学の流れを
合理主義→実存主事→構造主義→ポスト構造主義として、主な哲学者の思想を中心に説明する。
14歳からの哲学
ニーチェ
14歳的な哲学の代表としてニーチェの紹介から始まる。
ニーチェは宗教が力を失い「ニヒリズム」が広がると考え、結果「生きる喜び」が失われてしまうことを懸念する。
「ニヒリズム」の極端な形として「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すだけ)を想定し、「もう一度味わいたいと思えるような『今』を見出すこと」でそれを克服することを提唱した。
合理主義の哲学
デカルト
ルネサンスを機に全てにおいて神を根拠に説明されていた世界から、「理屈に合うこと」を大切にしようとする「合理主義」への流れが生まれた。
「人間の認識は本当に合理的と言えるのか」という疑問から認識論が生まれた。デカルトは人間の認識を敢えて徹底的に疑ってみることで人間の認識の正しさを証明しようとする。
・全てを疑っても、疑っている主体「私」が存在することは間違いない。
・不完全な「私」が完全なる神を知ることはできない。
・神は「私」が考え出したものではなく、外部から与えられたもの。
・なので「神」は存在する。
・完璧な存在である神は合理的に世界を作っているはず。
・なので人間が明晰な状態で認識したことは正しい。
という理論で人間の認識の正しさを証明した。
ヒューム
大陸の合理諭が演繹法を重視するのに対し、ヒュームらイギリスの経験論派は帰納法を重視した。
ヒュームは神すら「複合観念」として経験から生み出されたものだと考える。そして「私とは、知覚の束である」と主張し、経験不可能なものについても合理的に考えていけば、正しい知識に辿り着けるという楽観的な見方を否定した。
カント
ヒュームは全てのものは「経験から生み出された観念」だとし合理諭を否定した。
これに対しカントは「経験するための前提条件として『時間と空間という観念』が人間の中に最初から存在している」とした。「世界(モノ自体)」を「精神」が読み取り、経験可能な「時間と空間」という形式に変換すると考える。
人間に共通な認識がある以上演繹法は成立するが、それは同じ認識形式を持った人間の中だけの真理であるとした。
合理諭を復活させたが「モノ自体」は絶対に知ることができず、「人間の思考形式の範囲外のもの」も知ることができないという限界も示した
ヘーゲル
ヘーゲルは「人間の認識できるものだけが世界」だとし、現実的なものは理性的であると考えた。
「弁証法」を提言し人間の精神は矛盾を高次元で解決しながら徐々に成長していくものだとし、究極的には人間は万能の存在になり得ると主張した。
実存主義の哲学
キルケゴール
カントらは、「世界を私が認識している」という、私と世界の二元論をベースとし、ヘーゲルは「全てが私の精神現象だ」とい一元論的世界観を打ち出した。
これに対し実存主義では「現実に存在するものを大切にしよう」と考えた。
例えばリンゴが「赤くて丸い」というのは、リンゴの「本質」である。科学はこの普遍的な本質を探し出すことを目指している。これに対し個々の本質を大切にしようと考えるのが実存主義。
キルケゴールは、人間一人一人の内面を見つめることで絶望に至るが「可能性」を信じることで乗り越えていくべきだと考えた。
サルトル
実存主義では人間は特別で本質よりも現実存在が先に立つと考えたが、サルトルはこれを人間以外にも広げて考えた。モノであっても使用目的などの本質が先立つわけではなく、人間が現実存在に意味を貼り付けただけだとした。
「全てのものに『本質』があるわけではない。だからこそ私たちは自由に『意味=本質』を与えることができる」と考えた。
構造主義の哲学
レヴィ-ストロース
実存主義では人間を特別な存在で、意味を作り出すことができると考えた。これに対し構造主義では「世界の隠された構造を無意識に選び取っている」のだとし、人間が個人個人の意思で決断しているわけではないとした。
レヴィ-ストロースは未開文化の調査から隠された構造を発見し、個別の減少を見るのではなく、幅広く多くのものを見て興津する構造を探すことが大事だと主張した。
ウィトゲンシュタイン
構造主義の学者たちは 「言語=思考」と考え、言語の構造を分析した。
ウィトゲンシュタインは
・言葉は事実と対応していなければ無意味。
・愛や神などが存在するかどうかは言語的には語れない。
・語れないものについて語った哲学は無意味。
だとした。
また後には
・言葉の意味は使用状況で変わる。
・言葉とは文化圏によりたまたま決まった慣習的なものに過ぎない。
とし、「言葉自体は無根拠なルールの集合に過ぎない以上、それをどれだけ重ねても普遍的で客観的な意味にはたどり着けない」と考えた。
ポスト構造主義の哲学
デリダ
言語の構造を分析すると、構造主義もそれ以前の哲学も破綻してしまった。 また何を構造とするかは「さじ加減次第」ということが理解されていく。
ここから構造主義は勢いを失うが、これに代わる大きな流れは未だ出ていない。
デリダは文章の意味を一つに決めることはできず、読み手がそれぞれに解釈するしかないとした。物事を並べても本質を知ることはできないので、カチコチの理論から脱することを提言、一つの減少に対する解釈は複数あっていいし、有用なら全部正解でOKだとした。
ボードリヤール
ボードリヤールは「資本主義社会は決して破綻しない自己完結したシステム」だとした。物理的なモノの生産にかかるコストが下がり、今では「記号」が経済を回している。「記号」は無限に生み出すことができる。その中では哲学も記号の一つとなっている。
これからの哲学
著者が次時代の哲学テーマの一つとして挙げるのが「働かない社会を作るのにはどうすればよいか」ということ。
生産効率が上がり生きるために必要なモノの生産コストが下がることで、無理にでも意味を作り経済を回しているのが現代。「仕事しなくてもいいんじゃん」という論理があり得る。
現代の価値観とは分かり合えないが「言葉が通じない」ところから新しい哲学が生まれる。
感想・考察
タイトルに「14歳からの」とあるけれど、14歳向けの本というわけではない。哲学は14歳くらいで経験する「中二病」が入った「極端で幼稚な発想」から生まれているのだ、という主張だ。
飲茶さんの哲学解説は本当に分かりやすい。
合理主義から実存主義、構造主義、ポスト構造主義という流れを単純化して解説してくれます。本書もものすごく分かりやすい説明で感動した。
宗教権威への盲従から合理主義へ。
合理主義が「本質の追求」に傾いたことへの反動として、個々の現実存在を重視する実存主義へ。
人間が実存に意味を与えているという解釈に対し、無意識に構造に従っているとする構造主義へ。
構造を突き詰めると結局全てが無意味になってしまうというポスト構造主義へ。
大まかな流れの中で説明されるので分かりやすい。色々と関連書を読んでみたいと思う。
また飲茶氏は冗談半分に「ニートの闘い」をテーマに上げているが、「働かなくてもいい社会」という思想には全面的に賛成する。
生きるために必要なモノを作る生産コストは下がり続けている。そのため労働者の必要が減ってしまえば失業者が増え、富の分配が行われなくなるから、無理にでも仕事を作り経済を回しているのがケインズ以降の資本主義だ。
今後ロボット技術やAIがさらの進歩すれば、生産コストを更に下げ、労働者の必要数もさらに減り、さらに無理やりな仕事が作られるかもしれない。
働くことが楽しい人にとってはそれでいいのかもしれない。社会へ貢献する感覚が大事なのかもしれない。だが、もし本当は必要ないというのであれば、やりたくもない仕事を、ただ生きるために続けたくはないと思う人もいるだろう。
現在、富を分配する方法は「労働力を売る」か「資本を運用する」がほとんどだが、生産コストが下がり続けるのであれば「富の配分」を考え直す必要があるのではないだろうか。例えば、ミニマムインカムとして最低限の収入を保証することかもしれないし、無償でシェアする経済の拡大かもしれない。
うーん、働きたくない。。。