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准教授・高槻彰良の推察2 怪異は狭間に宿る

准教授・高槻彰良の推察2 怪異は狭間に宿る

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あらすじ

10歳の頃「死者たちの祭り」に紛れ込み、そこから抜け出す代償として「人の嘘が分かる」ようになってしまった深道尚哉。
民俗学の准教授、高槻彰良の「都市伝説探求」の助手として怪奇現象の謎に取り組む。

  • 学校には何かがいる

高槻は民俗学の講義で「学校の怪談」を取り上げた。
学校ではトイレにまつわる怪談が多いのは「学校という日常と、トイレという少しだけ日常から逸脱した場が生み出す、日常と非日常の間に怪異が生まれる」という。

高槻が都市伝説の情報収集のため運営している「隣のハナシ」というサイトに、とある小学校教師から相談メールが届く。

その教師が担任するクラスで「5年2組のロッカー」という話が広まっていた。
ある日数名の女子児童がコックリさんをやっていた。だが。終わりにしようとしたとき「コックリさん、お戻りください」と何度お願いしても、「いいえ」を示し戻らない。

「あなたは誰ですか?」と聞くと「ち・な・つ」だと答えた。
そしてその時、教室の隅に置かれていたロッカーの扉が開きはじめ、全員逃げ出してしまったのだという。
それ以降、学校では「変な音を聞いた」「ちなつの声を聞いた」という話が何度も出てきている。

「ちなつ」というのは、以前5年2組にいた児童だった。
彼女は病気のためほとんど登校できず、遠くの病院に入院するため、夏休み前に引っ越していた。

高槻たちは、噂の真相を探る。

  • スタジオの幽霊

学園祭の数日前、尚哉は体調を崩し高熱を出した。
中耳炎になり耳の膿を出す処置をすると「嘘をつく声が歪んで聞こえる」能力が失われていた。尚哉は自分を孤独にした「嘘が分かる能力」を呪っていたが、同時に能力を亡くなったことで「高槻の役に立てなくなる」ことを怖れる。

学園祭では人気女優の藤谷更紗と高槻のトークショーが行われた。
藤谷はデビュー作から評価の高い女優だったが、最近では心霊現象が見える「霊感女優」としてバラエティーにも出演するようになっていた。
藤谷はトークショーの後、「映画撮影の現場に幽霊が見える」と高槻に相談した。高槻たちは彼女が主演するホラー映画の撮影現場に赴き、「長い前髪で顔を隠し白い服を着た女性」の姿を見た。

高槻は撮影現場で起きた怪奇事件の謎を解く。

  • 奇跡の子供

高槻は民俗学の講義で「流行神(はやりがみ)」を解説する。
「流行神」とは、ある時突然現れて短期間熱狂的に流行って急に忘れられる民間信仰のスタイルだ。

高槻は「奥多摩の奇跡の少女」についての調査を依頼される。

奥多摩に遠足に来ていた小学生の乗るバスが転落し、一人を除いて全員死亡した。一人生き残った少女愛菜が神様に護られた存在だとして祀り上げられていた。
これが「いかがわしい新興宗教のようなもの」ではないか、調べて欲しいという調査依頼だった。

高槻たちは、奇跡の少女愛菜を訪ねた。
愛菜は事故の影響で口を利くことができなくなり、母親が来訪者の対応をしていた。母親は組織を作ることも金品を強要することもなく、人々は完全に自主的に訪れているだけだった。

翌日高槻たちは、遠足の目的地だった「見はらしの丘」の見学に来た。
するとそこには愛菜も来ていて「遠足のしおり」をもって風景を眺めていた。

高槻は、愛菜に起こった本当のことを解き明かす。

感想

前作で高槻は「人は分からないことが怖いから、無理にでも理由付けして安心しようとする」といった。

「分からない」と危険を回避することができない。仮でも嘘でも理由付けすることで安心しようとする心理はよく理解できる。

例えば、通り魔にいきなり理由なく背中から刺されるのは怖い。だから「長い引きこもりで社会に恨みを持っていた」とか「猟奇的な映像作品に影響されていた」というような「理由」付けをすることで「特殊な例だからめったにない」と安心したり、「○○を無くせば大丈夫」と攻撃対象を作ることで不安を転嫁したりできる。

実際には犯人の内面にどのような動きがあったのかは分かりようがないし、サンプル数1の事例では「傾向としての理解」にも大して役に立たない。
それでも「理解して安心できる」というプラセボ効果があるのだから「無理やりな理由付け」も有意義だといえるだろう。


今作では、一歩進んで「人はいつだって神様が欲しいのだ。すがって祈って満足できる、都合のいい神様が」ともいう。

人は理由を欲しがる。さらに毎回理由を考え全てを判断するのはエネルギーの無駄遣いだから「判断基準の外だし」をして楽をしようとする。

文化的背景によって、ある程度固定的であるべきだと考える「一神教的判断基準」もあれば、柔軟さのある「八百万の神的判断基準」もあるが、いずれにせよ「自分の外に基準を持つ」という方向性は同じだ。

実際問題として「全てを自分で考えて決める」のは不可能だ。判断にはエネルギーを使うし、エネルギーは有限だ。

習慣化したり固定化して、判断すべきポイントを減らすことも有効だろう。
エネルギー節約のため着る服を固定したスティーブ・ジョブズみたいに。

また都度の判断で、頼るべき基準があることは非常に楽だ。
本当は、その時々の個別状況をみて個別に判断しなければならないのだろう。どれだけ詳しく深く考えても、常に「正解」がある訳ではなくて、最後には解釈の問題になるのかもしれない。それでも考えることを放棄しているだけでは、判断エネルギーの資源が増えないし、考え方も育たない。

判断基準を外だしするのは構わない。でも考えることを放棄してはいけない。
個別具体的な問題にぶつかり続けることで、「外部の判断基準」を磨き上げていかなくてはいけない。

隣の神様が、もっと優れた神様になってくれるよう、育てていく必要があるのだ。

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