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これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学

「コミュニティのコモンセンス」と「理性的な個人の道徳」の擦り合わせ『これからの「正義」の話をしよう』

こちらで購入可能

「正義とは何か」深く考えさせてくれる本。
善悪を考えるとき自分がどういう根拠に立っているのかを意識させられる。


とても有意義な本だと思うけれど、一見だととっつきにくいかもしれない。概要を把握するとこの本自体も読みやすくなると思うので、要点をピックアップして説明してみたい。

ざっくり以下のような流れ。

1.「正義」の考察
2.「功利」「自由」「道徳」について
3.マイケル・サンデルの考える「正義」

興味を持たれたら、是非本書を手に取ってみてください。

1.「正義」の考察

本書では正義を考える立ち位置として「功利」「自由」「道徳」の3つを挙げている。
数多くの事例を通して、それぞれの考え方がどういう結論を出すのか、具体的に検討をしていく構成だ。

ここでは2つの事例を取り上げたい。

事例1
ハリケーンの影響を受け、家屋や電気水道などに甚大な被害を生じた地域で、宿泊施設や氷などを通常よりはるかに高い価格で提供する業者が現れた。彼らの行為は正しいか?

・全体としての功利を最大化させる「功利」の観点からは「正しい」
通常よりも高い価格がインセンティブとなって、多くの業者が必要物資を提供することになる。結果として、必要な場所に必要な物資が行き届くというメリットが生じる。ただし、価格上昇分を支払うだけのお金がなく分配を得られない人々がいるならば、彼らのデメリットを差し引いて考える必要がある。

・個人の主体的な意思を尊重する「自由」の観点からも「正しい」
モノの価格に絶対的な基準はない。例え通常より高くても、売る側と買う側が合意して取引したならば、それが「正しい価格」だといえる。ただし、寝る場所もない人が高価なモーテルで宿泊するのが、本当に「自由意思」といえるのかは考える必要がある。

・「道徳」の観点からは「正しくない」
人が困っているのに付け込み、足元を見た価格をつけるのは納得いかない。同胞が困っているなら助けるべきだ。というシンプルな視点。

もう一つの事例をみてみよう。有名な「トロッコ問題」の拡大版だ。

事例2
数百万人が住む都市に、テロリストが核爆弾を仕掛けた。このままでは数時間後に都市の住民は全員死んでしまう。テロリストを拷問して爆弾の解除番号を聞き出すのは正しいか? もしテロリストの口を割らせる手段が「何も知らないテロリストの5歳の娘を拷問すること」だけだったとしたら、それを行うのは正しいか?

・功利の観点では「正しい」
数百万人の命と比べれば、テロリスト一人を拷問することのマイナスは圧倒的に軽い。これがテトリスと娘の2人になっても、数百万人との対比ではで大して変わらない。

・自由の観点では、テロリスト本人か娘かによって考えの筋道が異なる
テロリスト本人は爆弾を仕掛けたことについて彼自身の意思による責任があり、拷問をすることは「正しい」といえる。
一方、その娘にとっては本人の意思に関わらないところで生じた事柄に責任はなく、彼女を拷問するのは「正しくない」。
とはいえ、自分の意思と関係ないところで爆弾の危険に晒される都市住民にも責任はなく、「自由」の観点だけでは結論が出せない。結局は人数で判断するなら「功利」を基準としたということになる。

・道徳の観点でも結論は出しにくい
テロリスト本人を拷問することは納得できる範囲だが、娘への拷問は判断に迷うところだろう。
だが、後述する著者のような「コミュニタリアン」的道徳の観点からすると「本人の意思によらずとも、地縁・血縁による先天的な責任」が生じることもあり、その立場からみれば、娘を拷問することも「正しい」といえる。

それぞれの立場からみると、一つの事例に対して「異なった正義」が導かれてくるのがわかるだろう。

本書では、代理母出産、尊厳死、徴兵制と志願兵制、累進課税、などなど多くの事例を検討していて、そのケーススタディがどれも面白い。興味を持たれたら、是非実際に読んでみてもらいたい。

次に「功利」「自由」「道徳」の考え方についてみてみよう。

2.「功利」「自由」「道徳」について

著者は「功利」についてはベンサムとミル、「自由」についてはカントとジョン・ロールズ、「道徳」についてはアリストテレス(と著者自身)の思想をもとに詳しく説明している。

功利主義
「最大多数の最大幸福」という言葉が功利主義をよく表している。「社会全体の功利(=メリット)を最大化できる選択が正しい」という考え方だ。正しさの基準を個人や社会に置くことの危うさから逃れ、客観的な基準で定量的な判断をすることを目指している。

欠点として、「少数の立場が切り捨てられてしまうこと」、「質を考慮せず、すべての功利を一律の基準で数値化しようとすることに無理があること」が挙げられている。


自由主義
本書で使われる「自由」の範囲はかなり広い。リバタリアン的な政治経済面での自由主義から、カントのいう厳密な自由、ジョン・ロールズが提唱した自由を平等まで広げた考え方も含めている。中でもカントとロールズの思想にはかなりの紙面を割いて説明している。

・カント
カントのいう「自由」は「自分の理性のみに従って生きる」ことだ。

「自分の思うままに行動すること」は自由ではない。例えば「お腹が空いたから何かを食べる」のは「食欲に支配されている」のであって理性的な自由ではない。
さらに「信用を得たいから、嘘はつかない」というのも自由ではない。「〇〇だから、何かをする」というのは「〇〇」という条件に縛られていて自由ではない。

本当の自由とは「自分の理性が普遍的に正しいと思うこと」を動機に行動することだ。

カントは「人は、普遍的・先天的にある理性というフィルタを通してしか物事を認識できない」という立場をとっており「人の理性」を最大限に尊重している。彼の正義のベースは理性の尊重にある。

・ロールズ
ロールズは「自由な個人同士の理性的な合意」を根拠とした社会契約説をベースとしながら、「立場の強い者の意見が通る社会契約は公正でない」と考えた。そこで、仮想的に「お互いが自分の社会的立場がどうなるか全くわからない(無知のベール)状態で定められた契約」を考えることを提唱した。


道徳主義
道徳については、だいぶ時代を遡ってアリストテレスの考えを紹介している。

アリストテレスは「物事はその目的から考えるのが正しい」とした。
例えば「笛を誰に渡すべきか」という問いには「最も笛を上手に吹ける人」と答えるが、その理由は「最も良い音楽が聴けるから」という功利主義的なものではなく「笛は良い音を出す目的で作られているから」だとする。

現代の事例で「白人よりマイノリティの合格基準を低くしているロースクールのアファーマティブ・アクション」の是非が挙げらている。そのロースクールの「目的」が「地域社会により良い司法をもたらすこと」であるならば、現状ではほとんどいないマイノリティの弁護士、裁判官の輩出を助けることは「正しい」。白人の受験者にとっては不公正だが、「目的」を定めるのは学校側なのだ。

一方、「あるべきモノを、あるべき所に置く」という目的至上主義は「あるべき所にあるモノを動かすべきではない」という硬直的な考え方につながる恐れもある。

例えば、アリストテレスは奴隷制について「奴隷であるべき者が奴隷になっているのだから、奴隷制は正しい」と述べている。現状を他の視点から見ることには繋がりにくいのだ。西欧中世の数百年の安定と停滞は、アリストテレスの功罪なのかもしれない。

次項で、本書著者のマイケル・サンデル氏の「正義」をみてみたい。

3.マイケル・サンデルの考える「正義」

マイケル・サンデルも「道徳」を正義の根拠に置く立場だ。その中でも地縁・血縁に根拠を置いた「コミュニタリアン」的な考え方を持っている。特徴的な部分を取り上げてみたい。

・合意に基づかない義務
一つの例として「1945年以降に生まれたドイツ人は、ユダヤ人に対するホロコーストの責任を負うのか」という問いを挙げている。普通に考えれば「自分が関与していない事柄」には責任の持ちようがない。

だが著者は「個人の合意を超えて、コミュニティとしての責任を果たしていく態度」を尊重している。個人レベルでは関与し得ないことにも責任を果たそうとすることが社会の一員として重要なのだという。そういう視点では「戦後生まれのドイツ人もホロコーストの責任を持つ」ことになる。

国の話だとピンとこないが、もう少し範囲を狭くして「自分の子供と他人の子供が溺れていたら、どちらを助けるか」と考えるとわかりやすい。「明白な合意がなくても、家族というだけでお互いに助けあう義務がある」ということであれば納得しやすい。


・政治は宗教や道徳的判断から中立であるべきか
多くの国家は政教分離を謳い、宗教的な道徳観に対し中立的であろうとしている。だが著者は多くの事柄において「道徳的に中立的な判断」はありえず、「実際には何らかの道徳的基準を持っているのだから、そこから目を背けるべきではない」としている。

例えば「人工中絶の是非は政治で判断すべきではないから、個人に任せる」というケースでは「(少なくとも妊娠初期の)胎児は人間ではない」という判断を前提としている。そうでないなら「人間の生死の判断をその親に委ねている」ことになってしまう。「胎児が人間ではい」というのは、道徳的・宗教的な判断だといえるだろう。

結局は道徳的判断をしているのだから、「中立」という建前にこだわるのは不自然で危うい、ということだ。

個人的な感想

アリストテレスの時代から続いてきた「目的に基づく道徳」が、宗教や政治での権力者が「正義」を恣意的に操つることにつながってきた。

そこからの脱却を目指したのが、カントによる「理性の尊重」であり、ベンサムによる「功利の定量的判断」なのだと思う。これらの考え方には欠陥も多く、実社会での適用では問題を引き起こすことも多いけれど、「それでも理性で判断しよう」という強い意思が感じられ、社会の進歩を促したのだと思う。

一方、マイケル・サンデル氏の提唱する「コミュニタリアン的道徳観」は肌感覚として理解しやすい。コミュニティのコモンセンスを基準にすれば、あらゆる問題に対してとりあえずの答えを出すこともできる。とはいえ「正義の恣意的運用」のリスクを考えると、せっかく一歩進んだところを後退してしまう感がある。

「コミュニティのコモンセンス」と「個人の理性的な判断」を擦り合わせていくことが大切なのだろう。

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