あたらしい哲学入門 なぜ人間は八本足か?
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ナンセンスギャグで「無意味な言葉を積み重ねることのバカバカしさ」をみせる土屋氏の哲学!
あらすじ・概要
土屋氏の大学での哲学講義の内容をまとめたもの。
- 問題が無意味になるとき
「なぜ人間は八本足か?」という問題は、「なぜ」のあとに事実に対応していない言葉が来ているので、いくら考えても答えることができない。
20世紀のウィトゲンシュタインは、「言葉は事実と対応していなければ無意味」だとし、哲学の問題は「問題として成り立っていない」とした。
古くはアリストテレスも言葉の問題を取り上げている。
ゼノンは「飛ぶ矢は飛ばない」というパラドックスで「矢は瞬間ごとには止まっている。止まっている瞬間をいくら集めても動きはない」とした。
これに対しアリストテレスは「止まっている」「動いている」というのは「一定の時間の中での位置」についての言葉であり「その瞬間に止まっている」という表現は言葉の誤用で、意味のないものだから問題として成り立っていないと
- 言葉が無意味になるとき
「昨日 ぼくに ラーメンと 食べるだろう」のように「統語法」のおかしさは分かりやすいが、「円周率を食べた」のような言語規則違反は分かりにくいこともある。
- 基準
例えば「A型インフルエンザの基準はA型インフルエンザウイルスが検出されること」のように基準を定めることができる。
「気温が23℃である」ということの「意味」を考えると、そもそも気温とは何か、23℃であるとはどういう意味を持つのか説明が極めて難しいが「温度計の水銀が23℃の目盛りの所まで上がったら23℃」という基準を設けることはできる。気温が23℃であることと温度計の目盛りには直接の関係はないが、説明のために有益だ。
例えば、野球解説者が「球に力がないから打たれた」と言った場合、「球に力がない」ことを判断する「基準」が「打たれたてしまうこと」だとすると、「打たれてしまう球だから打たれてしまった」という意味しかない。
「時間」を考える場合、時計などの空間的な動きを「基準」にしている。「1時間」がどこかに存在するわけではない。その基準ではかられるものを「時間」と呼んでいる。
「時間」という言葉が示すものは基準によって切り出されたものだけで、それ自体は明白なものであり、「時間とは何か」という問いには意味がない。
- 単純化
「意味がある」という場合、真偽を判断できる客観的意味と、その人がどうとらえているかという主観的意味の二種類がある。
「人生に意味はあるか?」という問いに対して「つまらない」事実を取り上げても主観的な判断で切り口を選んでいるだけで、結局は「個人の態度の表明」という意味しかない。
- 意味の混同
ラッセルは「あるナンバープレートを見る可能性を仮に1憶分の1とすると、色々なナンバーを目にするのは1億分の1の可能性が連続して起こるのは天文学的な奇跡なのか」というパラドックスを提示した。
これは「他とは違う特徴がある」という意味で「特別」なのか、単に世界に一つしかないユニークなものだから「特別」というのか、二種類の「特別」を混同しているとした。
子供が「空はなぜ青いのか」と不思議がるのと、手品の「不思議」も別のものだ。
手品の場合は不思議に対する答えを提示することができるが、空の青さは「光散乱」や「特定の周波数が吸収されやすい」などの「理由」を挙げても、「じゃあなぜそうなっているのか」という疑問が続き根本的な解決にはたどり着けない。
- 「決める」と「知る」は両立しない
自分が決めたことを「知る」ことはできない。
「あなたがカレーを食べることをあなたはどうして知ったのですか?」という問いに意味はない。「どう決めるか」という根拠を知ることはできるが決めたこと自体を「知る」というのは成り立たない。
感想・考察
ウィトゲンシュタインは「語れないものについては沈黙すべき」として、無意味な言葉を積み上げた哲学を否定した。土屋氏の論理は基本的にこの流れに沿っていると言える。入門書と謳っていているが、かなり専門性の高い分野を攻めていると思う。
色々な例を挙げて「問題として成り立っていない」ことを説明している。例の内容自体は簡単なものだが、正直いって腹に落ちない部分が多い。もう少しウィトゲンシュタインについて基礎知識を付けてから再読してみようと思う。