キネマ探偵カレイドミステリー ~輪転不変のフォールアウト~
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あらすじ
映画マニアの引きこもり 嗄井戸が、友人の奈緒崎の持ち込む事件を解いていく。
「キネマ探偵カレイドミステリー」シリーズ最終作。
- 「逆行無効のトライアンフ」(バック・トゥ・ザ・フューチャー)
奈緒崎は大学構内で元カノの小宮先輩と出会う。
小宮が所属していた映画研究会の部長は、海外留学を決めた彼女の出発前に、バック・トゥ・ザ・フューチャー「デロリアン」の実物大レプリカを見せたいと言ってきた。
小宮が約束の時間に視聴覚室に行くと、扉のガラス越しに実物大のデロリアンが見えた。だが彼女が部長に頼まれ、別の部屋に資料を取りに行った数分の間に、デロリアンは姿を消し、ドアだけが残されていた。
視聴覚室の扉は小さく、デロリアンは解体しないと通過させることはできない。だが複雑な構造のデロリアンを数分間で分解することは不可能だった。
小宮はガラス越しに見ただけだったが、車をいじっている部長はリアルタイムに反応していたので、映像で騙されたわけではないと思われた。
奈緒崎は嗄井戸に状況を話し、事件解決のヒントをもらう。
- 「依然必然のアクチュアリー」(ラブ・アクチュアリー)
クリスマスイブの朝、奈緒崎がバイト先のレンタルビデオ店に行くと、一人の店員が殺されていた。
被害者は「Love Actually」のDVDケースを握っていて、タイトルの ”A”に、あからさまに血が塗られていたことから、関係者の中で唯一Aのイニシャルを持ち、第一発見者でもある奈緒崎に容疑が掛けられた。
奈緒崎は逮捕まで一日の猶予を与えられたが、それまでに自分の潔白を証明しなければならない。
奈緒崎は嗄井戸に助けを求めた。
- 「輪廻不変のフォールアクト」(俺たちに明日はない)
シリーズ第一作から未解決のままだった「嗄井戸姉の惨殺事件」にケリをつける。
嗄井戸の姉の殺害犯は、惨殺場面の映像を「本物のスナッフフィルム」としてネットに流し拡散させていた。
同時に、さまざまな「スナッフフィルム」を仕込んだDVDを嗄井戸のコレクションに忍び込ませ、嗄井戸を犯人とミスリードさせる罠を仕掛けていた。
感想
実際の殺害現場を撮った「スナッフフィルム」を好み「真実のもつ迫力に敵うものはない」という犯人。
一方、計算され尽くした映画の演出を愛し「演出は時に真実を超える説得力を持つ」という嗄井戸が対立する。
「真実」と「演出」の闘いだ。
昨今の映画ではCGのクオリティが上がり「何でもできる」ようになった。その分、ド派手なアクションにも、壮大な風景でも、驚きを感じることは少なくなっている。
最近のマーヴェル作品のアクションシーンなんて派手でカッコいい。それと比べると、1970年代のルース・リー映画は地味だ。それでも彼の截拳道の「重さ」はCGで表現しきれないものだと感じる。
「真実の持つ迫力に敵うものはない」という犯人の主張は、ある面真実だと思う。
これに対して嗄井戸の「徹底的に計算された演出が真実以上の力を持つことがある」という主張も理解できる。
だが「真実に対する受け手の反応」は限定的で、コントロールすることはできない。「実際に起こったこと」以上に何かを伝えることは難しい。
もし私が実際の殺害シーンを見せられたら嫌悪感しか残らないだろう。
でもそれが「演出上の死」であれば、メッセージ読み取る余裕も出てくる。映画監督や小説家などフィクションを生み出す表現者は「嫌悪感、恐怖、悲しみ、爽快感」など、受け手の反応を計算しながら表現をコントロールできる。
受け手側は「実際に起こったこと」を超えて、表現者の意図を感じることができる。
表現者と受け手には感性の違いがあるし、必ずしも狙った通りに伝わるわけではないだろう。
たまたま両者の感性がしっくりと嵌れば「傑作」だと感じるだろうし、表現者の意図と違う受け取り方をされても、それはそれで受け手にとって意味のあるメッセージになるかもしれない。
映画や小説などのフィクションを愛する身としては「演出が真実を超えることもある」説に与したい。